線上戯劇宣言(オンライン・シアター・マニフェスト)
王翀
古代ギリシャ人はたぶん想像もしなかっただろう。かれらが公共の論壇としていた「演劇」が、二千年あまりもの後、依然として存在しているとは。古代ギリシャ人はさらに予想しなかっただろう。かれらが演劇『オイディプス』で描いた疫病が、二千年あまりもの後、演劇に致命的な打撃をもたらすとは。
上演は中止され、劇場は閉鎖され、演劇は—消滅した。
演劇は消え、インターネット上の演劇の録画だけが残った—むろん、演劇の録画は演劇ではない。それは演劇の拙劣な記録、幻影のごとき微かな印象、漠然とした記憶にすぎない。
演劇人の怨嗟の声は満ち、哀れな姿があちこちに見られた。実のところ、演劇人にとってもっとも惨めなのは、仕事がなくなったことではなく、「演劇はあってもなくてもいい」という二一世紀の残酷な現実を、目の当たりにしたことなのだ。
あらゆる職業の中で、疫病によってもっとも早く門を閉じられたのが演劇であり、最後に門を開けるのも演劇である。演劇はあってもなくてもいい。
飲食業はとめられない、製造業はとめられない、音楽はとめられない、Netflixはとめられないが、ただ演劇だけがあってもなくてもいい。
疫病が起こり、演劇人はやっと悟ったのだ、演劇はあってもなくてもいい、と。実際には、演劇はとうにあってもなくてもいいものだったのだ。演劇が人と神を結びつけることができなくなって久しく、演劇が明けない長い夜の唯一の光明たりえなくなって久しく、演劇が人びとの目を覚まさせる声を発することができなくなって久しい。演劇はもはや、公共の論壇ではなくなった。大多数の演劇はほぼ、われわれの時代とは無縁なのだ。
携帯電話やインターネットが人類の新たな器官となり、サイバーパンクの世界に指先で触れられるようになった今、劇場はオンラインでいることが許されない数少ない場所となった。世界のニュースや公共のイベントが秒単位で起こっている今、演劇が紙の上から舞台へと移されるには、なお一、二年の時間がかかる。インターネットに接続する人口が、世界の人口と肩を並べるようになっても、演劇は依然として少数の人が手にする玩具、物好きの暇つぶしなのだ。
演劇は観光事業であり、演劇は食後の娯楽であり、演劇は資本のゲームである。演劇はあってもなくてもいい、なぜなら演劇はとうに公共の論壇たることをやめてしまったからだ。それは公共でもなければ、論壇でもない。
だがオンラインの世界は、公共であり、論壇でもある。この世界には、共有があり、参加があり、数十億人がいる。この世界には、舞台があり、客席があり、野外の広場がある。この世界には、身体があり、空間があり、脈打つ心臓がある。この世界には、エネルギーがあり、光があり、時代の精神がある。オンラインの世界は、世界の鏡像ではない。それは世界そのものなのだ。
この世界では、演劇人は徒手で、ゼロから始められる。一切の時間と空間はわれわれによって定義され、一切の言葉と記号はわれわれによって設定され、一切の現在と未来はわれわれによって創造される。この世界では、ディオニュソスの精神を追求することがたやすくできるし、ピーター・ブルックの想像した「直接性演劇(イミディエイト・シアター)」に到達することもたやすくできる。
オンライン演劇は、疫病の時期のその場しのぎでは断じてない。『オイディプス』のように、疫病は風とともに去り、賢者は生と死の間で翻然とめざめるだろう。人類の社会はやがて、VR(バーチャル・リアリティ)、AR(オーグメンテッド・リアリティ)、人工知能、人工生命体で溢れかえるだろう。人類の芸術も同様である。人類はいずれ「人類」を再定義し、「演劇」も再定義するだろう。演劇人はすでに「演劇の死」を経験しており、手をこまねいて見ているべきではなく、座して死を待つことはできない。オンライン演劇は、演劇の死を告げる弔鐘ではなく、未来への前奏曲なのだ。
われわれ—わたしと友人は夜を徹して眠らない、前奏曲はもう奏でられたのだ。
人びとはその場にとどまり続けるのか、それとも、われわれとともに歩き出すのか。
二〇二〇年四月二〇日 オンラインにて発表
(田村容子訳)